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ミラン・カダカさん
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| 29 November 2017

音楽を使ってHIVに対する汚名と闘うネパールの大学生

ミラン・カダカさんが10歳の時、両親をHIVによって亡くしました。「両親が亡くなった時、深い孤独を感じました。僕のことを思ってくれる人はもう世界中に誰もいないのではないかと思いました」とミランさんは言います。「誰かの愛を受けている子どもたちを見ると、両親が生きていれば、自分もあのように愛されただろうに、と思いました」 ミランさんのように、インドへ出稼ぎに行った親を祖国ネパールで待つ子どもは、何千人もいると言われます。ミランさんは10歳までインドで育ちましたが、母親をエイズ関連の疾患で亡くしました。母親の死後、家族でネパールに帰国しましたが、8カ月後に今度は父親が亡くなり、一人、祖母の下に残されたのです。 「両親の死後、自発的にHIV検査を受けに行き 、体内にウイルスがあるかどうかを確かめました」とミランさん。「HIV陽性という診断を受けてから、少しずつそのことが地域の人たちに知られるようになり、やがてひどい差別を受けました。学校では友人が一緒に座ってくれず、中傷やいじめもありました」さらに、「家では寝室を分けられ、寝具も、食器も、髪をとかす櫛も別のものを用意されました。一人きりで眠らなければなりませんでした」 ミランさんが、地域に住むラクシュミ・クンワルさんに出会ってから、事態が好転し始めました。ラクシュミさんは、自身もHIV陽性の診断を受け、地元パルパでHIVと共に生きる人々を支える活動に専心することを決意した女性です。IPPFネパール(FPAN)の在宅コミュニティ・ケア・モビライザーをしています。 孤児になった 幼い少年がつらい思いをしていることを知り、ラクシュミさんはミランさんの家族や先生たちと話し合いました。これを受けて、大人たちはクラスメートにも話をしました。「ラクシュミさんが話しに行ってから、先生たちは助けてくれるようになりました」とミランさん。「HIVについての(正しい)知識がわかると、学校の友達も仲良くしてくれ、ものを一緒に使ってくれるようになりました。学友たちはこう言ってくれました。『ミランにはもう誰もいないから、僕たちが一緒にいなくちゃ。ミランに起きたことが僕たちに起きない保証はないだろう?』と」 ラクシュミさんはミランさんが小中学校から大学に進学するまで見守り、勉学に励むよう、応援してきました。「ラクシュミさんはもはや母親以上の存在です」と言います。「実の母は僕を産んでくれましたけど、大きくなるまで面倒を見てくれたのはラクシュミさんです。実の母が生きていたとしても、ラクシュミさんのようにできたとは思えません」 ミランさんは学業では常にオールAの評価を受け、クラス上位にいました。そして優秀な生徒として、無事に学校を卒業できたのです。 現在、21歳のミランさんは忙しく、充実した毎日を送っています。大学の学生生活、FPANの在宅コミュニティ・ケア・モビライザーの活動、そして始めたばかりの音楽活動があるからです。教育学の学部生としてタンセン大学に通っているとき以外は、ケア・モビライザーとして地域の村を訪ね、住民にHIVの予防と治療について説明したり、避妊具を配布したりしています。HIVと共に生きる子どもたちを支える活動もしています。同じ境遇の子どもたちに、自分が両親を亡くし、差別を受けた経験から、幸せで成功した今の人生にたどり着くまでの道のりを聞かせています。 「この地域でHIVと共に生きる子どもたちは40名います」とミランさん。「僕は彼らに会って話をし、彼らの状況を知り、必要な支援があればつなぎます。彼らにはこう話しています。『あの時、もし僕があきらめていたら、今の僕にはなっていない。だから君たちもあきらめるな。君の人生を歩んでいくのだよ』と」 ミランさんのストーリーを動画にまとめました。ぜひご覧ください(英語)。      

ミラン・カダカさん
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| 29 March 2024

音楽を使ってHIVに対する汚名と闘うネパールの大学生

ミラン・カダカさんが10歳の時、両親をHIVによって亡くしました。「両親が亡くなった時、深い孤独を感じました。僕のことを思ってくれる人はもう世界中に誰もいないのではないかと思いました」とミランさんは言います。「誰かの愛を受けている子どもたちを見ると、両親が生きていれば、自分もあのように愛されただろうに、と思いました」 ミランさんのように、インドへ出稼ぎに行った親を祖国ネパールで待つ子どもは、何千人もいると言われます。ミランさんは10歳までインドで育ちましたが、母親をエイズ関連の疾患で亡くしました。母親の死後、家族でネパールに帰国しましたが、8カ月後に今度は父親が亡くなり、一人、祖母の下に残されたのです。 「両親の死後、自発的にHIV検査を受けに行き 、体内にウイルスがあるかどうかを確かめました」とミランさん。「HIV陽性という診断を受けてから、少しずつそのことが地域の人たちに知られるようになり、やがてひどい差別を受けました。学校では友人が一緒に座ってくれず、中傷やいじめもありました」さらに、「家では寝室を分けられ、寝具も、食器も、髪をとかす櫛も別のものを用意されました。一人きりで眠らなければなりませんでした」 ミランさんが、地域に住むラクシュミ・クンワルさんに出会ってから、事態が好転し始めました。ラクシュミさんは、自身もHIV陽性の診断を受け、地元パルパでHIVと共に生きる人々を支える活動に専心することを決意した女性です。IPPFネパール(FPAN)の在宅コミュニティ・ケア・モビライザーをしています。 孤児になった 幼い少年がつらい思いをしていることを知り、ラクシュミさんはミランさんの家族や先生たちと話し合いました。これを受けて、大人たちはクラスメートにも話をしました。「ラクシュミさんが話しに行ってから、先生たちは助けてくれるようになりました」とミランさん。「HIVについての(正しい)知識がわかると、学校の友達も仲良くしてくれ、ものを一緒に使ってくれるようになりました。学友たちはこう言ってくれました。『ミランにはもう誰もいないから、僕たちが一緒にいなくちゃ。ミランに起きたことが僕たちに起きない保証はないだろう?』と」 ラクシュミさんはミランさんが小中学校から大学に進学するまで見守り、勉学に励むよう、応援してきました。「ラクシュミさんはもはや母親以上の存在です」と言います。「実の母は僕を産んでくれましたけど、大きくなるまで面倒を見てくれたのはラクシュミさんです。実の母が生きていたとしても、ラクシュミさんのようにできたとは思えません」 ミランさんは学業では常にオールAの評価を受け、クラス上位にいました。そして優秀な生徒として、無事に学校を卒業できたのです。 現在、21歳のミランさんは忙しく、充実した毎日を送っています。大学の学生生活、FPANの在宅コミュニティ・ケア・モビライザーの活動、そして始めたばかりの音楽活動があるからです。教育学の学部生としてタンセン大学に通っているとき以外は、ケア・モビライザーとして地域の村を訪ね、住民にHIVの予防と治療について説明したり、避妊具を配布したりしています。HIVと共に生きる子どもたちを支える活動もしています。同じ境遇の子どもたちに、自分が両親を亡くし、差別を受けた経験から、幸せで成功した今の人生にたどり着くまでの道のりを聞かせています。 「この地域でHIVと共に生きる子どもたちは40名います」とミランさん。「僕は彼らに会って話をし、彼らの状況を知り、必要な支援があればつなぎます。彼らにはこう話しています。『あの時、もし僕があきらめていたら、今の僕にはなっていない。だから君たちもあきらめるな。君の人生を歩んでいくのだよ』と」 ミランさんのストーリーを動画にまとめました。ぜひご覧ください(英語)。      

ミラン・カダカさん
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| 29 November 2017

音楽を使ってHIVに対する汚名と闘うネパールの大学生

ミラン・カダカさんが10歳の時、両親をHIVによって亡くしました。「両親が亡くなった時、深い孤独を感じました。僕のことを思ってくれる人はもう世界中に誰もいないのではないかと思いました」とミランさんは言います。「誰かの愛を受けている子どもたちを見ると、両親が生きていれば、自分もあのように愛されただろうに、と思いました」 ミランさんのように、インドへ出稼ぎに行った親を祖国ネパールで待つ子どもは、何千人もいると言われます。ミランさんは10歳までインドで育ちましたが、母親をエイズ関連の疾患で亡くしました。母親の死後、家族でネパールに帰国しましたが、8カ月後に今度は父親が亡くなり、一人、祖母の下に残されたのです。 「両親の死後、自発的にHIV検査を受けに行き 、体内にウイルスがあるかどうかを確かめました」とミランさん。「HIV陽性という診断を受けてから、少しずつそのことが地域の人たちに知られるようになり、やがてひどい差別を受けました。学校では友人が一緒に座ってくれず、中傷やいじめもありました」さらに、「家では寝室を分けられ、寝具も、食器も、髪をとかす櫛も別のものを用意されました。一人きりで眠らなければなりませんでした」 ミランさんが、地域に住むラクシュミ・クンワルさんに出会ってから、事態が好転し始めました。ラクシュミさんは、自身もHIV陽性の診断を受け、地元パルパでHIVと共に生きる人々を支える活動に専心することを決意した女性です。IPPFネパール(FPAN)の在宅コミュニティ・ケア・モビライザーをしています。 孤児になった 幼い少年がつらい思いをしていることを知り、ラクシュミさんはミランさんの家族や先生たちと話し合いました。これを受けて、大人たちはクラスメートにも話をしました。「ラクシュミさんが話しに行ってから、先生たちは助けてくれるようになりました」とミランさん。「HIVについての(正しい)知識がわかると、学校の友達も仲良くしてくれ、ものを一緒に使ってくれるようになりました。学友たちはこう言ってくれました。『ミランにはもう誰もいないから、僕たちが一緒にいなくちゃ。ミランに起きたことが僕たちに起きない保証はないだろう?』と」 ラクシュミさんはミランさんが小中学校から大学に進学するまで見守り、勉学に励むよう、応援してきました。「ラクシュミさんはもはや母親以上の存在です」と言います。「実の母は僕を産んでくれましたけど、大きくなるまで面倒を見てくれたのはラクシュミさんです。実の母が生きていたとしても、ラクシュミさんのようにできたとは思えません」 ミランさんは学業では常にオールAの評価を受け、クラス上位にいました。そして優秀な生徒として、無事に学校を卒業できたのです。 現在、21歳のミランさんは忙しく、充実した毎日を送っています。大学の学生生活、FPANの在宅コミュニティ・ケア・モビライザーの活動、そして始めたばかりの音楽活動があるからです。教育学の学部生としてタンセン大学に通っているとき以外は、ケア・モビライザーとして地域の村を訪ね、住民にHIVの予防と治療について説明したり、避妊具を配布したりしています。HIVと共に生きる子どもたちを支える活動もしています。同じ境遇の子どもたちに、自分が両親を亡くし、差別を受けた経験から、幸せで成功した今の人生にたどり着くまでの道のりを聞かせています。 「この地域でHIVと共に生きる子どもたちは40名います」とミランさん。「僕は彼らに会って話をし、彼らの状況を知り、必要な支援があればつなぎます。彼らにはこう話しています。『あの時、もし僕があきらめていたら、今の僕にはなっていない。だから君たちもあきらめるな。君の人生を歩んでいくのだよ』と」 ミランさんのストーリーを動画にまとめました。ぜひご覧ください(英語)。      

ミラン・カダカさん
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| 29 March 2024

音楽を使ってHIVに対する汚名と闘うネパールの大学生

ミラン・カダカさんが10歳の時、両親をHIVによって亡くしました。「両親が亡くなった時、深い孤独を感じました。僕のことを思ってくれる人はもう世界中に誰もいないのではないかと思いました」とミランさんは言います。「誰かの愛を受けている子どもたちを見ると、両親が生きていれば、自分もあのように愛されただろうに、と思いました」 ミランさんのように、インドへ出稼ぎに行った親を祖国ネパールで待つ子どもは、何千人もいると言われます。ミランさんは10歳までインドで育ちましたが、母親をエイズ関連の疾患で亡くしました。母親の死後、家族でネパールに帰国しましたが、8カ月後に今度は父親が亡くなり、一人、祖母の下に残されたのです。 「両親の死後、自発的にHIV検査を受けに行き 、体内にウイルスがあるかどうかを確かめました」とミランさん。「HIV陽性という診断を受けてから、少しずつそのことが地域の人たちに知られるようになり、やがてひどい差別を受けました。学校では友人が一緒に座ってくれず、中傷やいじめもありました」さらに、「家では寝室を分けられ、寝具も、食器も、髪をとかす櫛も別のものを用意されました。一人きりで眠らなければなりませんでした」 ミランさんが、地域に住むラクシュミ・クンワルさんに出会ってから、事態が好転し始めました。ラクシュミさんは、自身もHIV陽性の診断を受け、地元パルパでHIVと共に生きる人々を支える活動に専心することを決意した女性です。IPPFネパール(FPAN)の在宅コミュニティ・ケア・モビライザーをしています。 孤児になった 幼い少年がつらい思いをしていることを知り、ラクシュミさんはミランさんの家族や先生たちと話し合いました。これを受けて、大人たちはクラスメートにも話をしました。「ラクシュミさんが話しに行ってから、先生たちは助けてくれるようになりました」とミランさん。「HIVについての(正しい)知識がわかると、学校の友達も仲良くしてくれ、ものを一緒に使ってくれるようになりました。学友たちはこう言ってくれました。『ミランにはもう誰もいないから、僕たちが一緒にいなくちゃ。ミランに起きたことが僕たちに起きない保証はないだろう?』と」 ラクシュミさんはミランさんが小中学校から大学に進学するまで見守り、勉学に励むよう、応援してきました。「ラクシュミさんはもはや母親以上の存在です」と言います。「実の母は僕を産んでくれましたけど、大きくなるまで面倒を見てくれたのはラクシュミさんです。実の母が生きていたとしても、ラクシュミさんのようにできたとは思えません」 ミランさんは学業では常にオールAの評価を受け、クラス上位にいました。そして優秀な生徒として、無事に学校を卒業できたのです。 現在、21歳のミランさんは忙しく、充実した毎日を送っています。大学の学生生活、FPANの在宅コミュニティ・ケア・モビライザーの活動、そして始めたばかりの音楽活動があるからです。教育学の学部生としてタンセン大学に通っているとき以外は、ケア・モビライザーとして地域の村を訪ね、住民にHIVの予防と治療について説明したり、避妊具を配布したりしています。HIVと共に生きる子どもたちを支える活動もしています。同じ境遇の子どもたちに、自分が両親を亡くし、差別を受けた経験から、幸せで成功した今の人生にたどり着くまでの道のりを聞かせています。 「この地域でHIVと共に生きる子どもたちは40名います」とミランさん。「僕は彼らに会って話をし、彼らの状況を知り、必要な支援があればつなぎます。彼らにはこう話しています。『あの時、もし僕があきらめていたら、今の僕にはなっていない。だから君たちもあきらめるな。君の人生を歩んでいくのだよ』と」 ミランさんのストーリーを動画にまとめました。ぜひご覧ください(英語)。